脱クルマ社会 推進事業

 
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脱クルマ社会とは


脱クルマ社会とは「クルマに依存する社会を、そろそろ止めよう」という試みになりますが、確かに、クルマは、非常に便利なモノであり、現在の社会で生活をする上では、特に、田舎のように公共の交通インフラが整備されていない地方自治体に住む人たちにとっては無くてはならないモノになっています。
しかし、近年では、増え過ぎたクルマにより、
騒音問題や排ガス問題が都市の環境を汚染し、移動手段としての足(クルマ)の高速機械化により、都市のスプロール化を促進し、そして、運転する人のモラルの低下により走る凶器と化したクルマが人命を損傷し続けているのも事実ですので、このように、リスクが高いクルマ中心の社会からは卒業すべきであり、実際に、海外では、この動きが進んでいます。

旧市街地の壊滅

 
日本の国や地方自治体は、
高度成長期以降、クルマでの移動を前提に都市政策を施策してきたので、クルマで移動しやすい郊外に大型の新興住宅団地を無秩序に整備し、人の流れ(生活拠点)を、旧市街地から郊外へと誘導(街の拡大戦略)してきました。
これにより、
特に、地方都市の旧市街地の商店街の多くは、シャッター通りになってしまい、このような「旧商店街に、昔のような活気が戻ることは、2度とない」と思えるほど、破壊されまくり、旧市街地には、さびれた商店街と
高齢者だけが取り残されました。

郊外型社会の形成

 
国や地方自治体の施策により、全国的に、
新市街の開発は急速に進みましたが、大量のクルマの移動に耐えられるよう整備された幹線道路の沿道には、大手チェーン店が乱立した結果、全国を見渡しても、どこも同じような街並みになり、殺風景で特徴のない空間に変貌してしまいましたが、これからは、この風景も、少しずつですが、確実に変化していきます。
これからの日本社会は、本格的に始まる人口減少と言う抗うことのできない荒波に襲われますので、いままでの人口規模であれば維持できた大手チェーン店の郊外型店舗も、人口が減少して社会規模が小さくなった地方自治体からは、採算性の悪化と従業員の確保の困難という理由により撤退していきます。
この作用により、いまは、横並びに郊外型の大手チェーン店の店舗群が並んでいる日本各地の幹線道路沿いも、徐々に、空き店舗が増え続け(空き店舗の増加による景観の悪化、さらに空き店舗が増える)という悪循環に陥り、最終的には、このような郊外型の社会も、好むと好まざると規模の縮小を余儀なくされ郊外型の大手チェーン店が乱立する地域(地方自治体)と歯抜け状態になった地域(地方自治体)と言う2極化が進行しますが、この2極化は、早めれば10年以内に日本の地方自治体を襲うことになります。


クルマ社会の弊害


日本の国や地方自治体は、他の各種問題同様に、クルマ社会の弊害とも真摯に向き合う努力をしてこなかったので、世界中の先進国で進む脱クルマの流れに逆行する異質の存在になりつつありますが、日本の国や地方自治体は、相変わらずクルマにとって都合の良い都市空間を守り続けています。
それは、住宅地に網の目のように整備された道路により分断された街並みやクルマの移動を優先するために歩道がない道路(小・中学校の前の道路も同様)などが、日本各地で見られますが、本来であれば、人の生活を良くするための道具でしかなかったクルマですが、そのクルマ目線で街の整備を続けた結果、いつの間にか、主役の座が、人からクルマに変わった社会が構築されたのが、いまの日本の社会です。
クルマ社会は、日本の高度成長期を契機に始まりましたが、当時のクルマは、自らの財力や権力を誇示する特別の存在でしたので、俗にいう高級車志向が長い間、日本では続いていましたが、最近になって、ようやく、その思考に変化がみられ、環境(エコ・高燃費)を意識する人が増えてきたように思われます。

交通政策でLRT


日本の地方都市には、公共交通を維持し改善するという基本的な責務すら民間企業に丸投げの地方自治体が多いですが、この地方自治体の主たる仕事は、クルマの渋滞対策ですが、クルマの円滑な運行が目的なら、バスで十分ですが、クルマ社会そのもののを転換には、クルマの通行を物理的に遮断する路面電車が最適です。
クルマ社会の到来は、路面電車の軌道を駆逐し、道路をクルマの専有物に変えましたが、ヨーロッパの諸都市やアメリカ(世界最大級の自動車大国)の一部の都市では「いまのクルマ社会を堪え忍ぶのは御免」という市民の気風が強まった結果、クルマの保有や使用に対する規制が次々に施策されました。
その象徴的な例が、路面の電車への(再)提供になり、世界の各都市で路線の復活や新設が進んでおり、ただ単に、路面電車を復活させるのではなく、LRT(Light Rail Transit・新型路面電車)という機能や意匠の優れた交通システムとして再生し、特に、ヨーロッパの都市で、電停との段差のないお洒落な車両が、街の風景を生き生きと演出している様子は有名であり、クルマ社会の到来以前の健全な活気を取り戻すべく、LRTをはじめとする公共交通機関を飛躍的に拡充させた都市も数多く存在します。
しかし、
日本の国や地方自治体は、この世界の流れから大きく遅れており、先進国では日本のみが、路面電車の復活という都市交通政策の世界的な潮流に乗り遅れており、クルマの通行にとって邪魔な路面電車を次々と廃止しただけで、一路線さえ復活させた例は1つもありません。

本質は変わらない


日本の地方に存在する小さな町や村では、クルマは、生きるために欠かせない道具なので、すぐには、クルマ社会からの脱却は難しいかもしれませんが、この問題は、コンパクトシティを進めて、地方の中核都市に人を集めれば良い問題であり、地方の中核都市は、公共交通を充実させれば、クルマに依存しない都市生活の実現は十分に可能です。
近年では、クルマの性能や道路環境は、飛躍的に改善されていますが、依然、
クルマ社会のままであり、クルマそのものの廃絶は、あり得ませんが、いまは、クルマが、豊かさの象徴であった高度成長の時代ではないので、クルマの性能が向上しても、その文化破壊の本質は変わりません。

脱クルマ社会について

 
地方の都市は保守的」と良く言われますが、これは、思考停止状態の人たち、いわゆる保守派と呼ばれる人たちが、過去を尊重せず、未来に配慮せず、いまの悪しき習慣に固執しているからです。
かれらは、想像力を大幅に欠如した人たちであり、かつ、思考回路が、き損した人たちになりますので、
その街で生活をするのは、自分たちを含む現在の住民だけではなく、その子供や孫たちも同じ場所で生きていく、という基本的なことにも気が付かない人たちです。

子供たちや孫たちの生活を考えたら「いまのままのクルマ社会で良い」という結論にはならない筈ですが残念ながら、この人たちは、そのような非常に近い未来のことすら創造する力がないので「現状の維持がベスト」「新しいことを行うのは、ほかの地方自治体の動きを参考にする」などという訳の分からない言い訳をして、自身が、報酬に見合う価値を、何も生み出せない事実を隠し続けています。
日本の中央も地方も、このように自身の責任を放棄した議員という名の職業についている人たちの集まりなので、一部の良識や分別のある人たちの声は表には出てこず、形にも、しにくくなっています。
かれらが、日本が、没落していく最大の理由であり、最大の害になりますので、いまだに、
クルマ社会の維持に固執をするような政治家は、今一度、原点に返り、自身の子どもや孫の世代に対する責任を果たすべきです。