30年後の日本

 
 
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30年後の日本とは

 
いまから30年後というと、2050年になりますが、この頃の日本の「持続可能性」は、ほぼゼロであり、かなり危機的な状態です。
「持続可能性」が、ほぼゼロと言えるのは、日本には、大きな問題が3つあり、①財政面、②人口面、③コミュニティ面が、複合的に絡み合って問題化しており、この大きな3問題に、他の問題要素が絡み合っているので、この絡み合った糸を解くのが非常に困難なためです。

財政面


この時期の日本は、政府の債務残高ないし借金が1000兆円あるいはGDPの約2倍という、国際的に見ても突出した規模に及んでおり、言い換えれば、膨大な借金を将来世代にツケ回ししていること、になりますが、総人口が減少し、国力が落ち続ける日本に、この莫大な借金を返す力はありません。
また、この問題は、国民にも及び失業者や低所得者の増加により、格差が拡大・固定化し、人々の繋がりが隔絶され、持続性が失われた「不安で、安全が保たれない」社会に陥る可能性が高いです。

人口面


生活保護受給世帯ないし貧困世帯の割合が、90年代半ば以降、急速に増加しており、格差が着実に広がるとともに、子ども・若者への支援は、国際的に見て極めて劣悪な環境は、相変わらず、改善されず、逆に、年々、酷くなっていっているので、若年世代の困窮や生活不安が拡大し、このことが低出生率あるいは少子化の大きな背景になり、少子化問題は、全く改善されず、逆に、悪化しているので、これまでの少子化・高齢化ではなく、無子化・高齢化になります。
また、2050年の総人口は、9700万人となり、2005年の1億2700万人に比べ約3000万人も減少しますが(約66万人の減少/年平均)、総人口に占める高齢者は、40%近くまで上昇します。
ほかにも、いまは人が住んでいる場所の2割または4割が無人になることも予測されており、この時期の人口は東京都に集中し、他の地域の人口は大幅に減少するので、急速に市街地が縮小していきます。 

コミュニティ不足


著名な国際比較調査(ミシガン大学が中心に行っている「世界価値観調査World Values Survey」)において「社会的孤立度」(親族以外の第三者との繋がりや交流がどの位あるか?)で、日本は、先進諸国において「孤立度が、もっとも高い」という結果がでており、これは、第三者(近所など)との接点がない、交流がない、ことになり、助け合いが行われない可能性が高くなります(孤独死)。
これは、単身高齢者が増える世の中では、一番致命的と言える問題になります。

2040年までに大勢は決まる

国立社会保障・人口問題研究所の人口推移予測では「2040年にどれくらい人口が減るか?」が、全国すべての市町村について算出されており、その人口の減少値は衝撃的(軒並み3割~4割減、中には5割近く減らす地方自治体もある)ですが、これらの大幅な人口の減少が予測されている地方自治体は「過疎地」ではなく、県庁所在地や中核都市、観光都市が多く含まれている点が問題であり、これでは、特に、特徴もなく、もともとの人口が少ない地方の町や村は、見るも無残な惨状になることは誰でも予想できますが、この問題に対して一番、危機感を持っていないのは、当事者である地方自治体です。
2025年問題などと同様に、これらの人口の減少が予測される地方自治体からは、すでに、人口の流出が始まっており、2040年まで待たずに、地方自治体の勝ち負けの大勢は決まると思われます。
この荒波にも
、札幌市や仙台市、福岡市などの大きな政令指定都市は、ギリギリ、持ち堪えていますが、県庁所在地でも静岡市や秋田市などは、ほとんど、お手上げ状態であり、静岡市は、いずれ、政令指定都市の冠も、はく奪されそうです。
これは、魅力に乏しい地方自治体から、一度、人口の流出が始まると、雪崩を崩したように人口が減少し続けることになることの表れであり、行きつく先は「幽霊都市」です。

死にゆく街

戦後の日本の発展を支えてきた原動力は、全国のいたるところで発展した地方都市ですが、いまでは、どの街も特徴のない似たり寄ったりの街になり、住民が歳をとり、特徴もなく、活力も無くなった街は、高齢者があふれ、急速に衰退する「死にゆく街」となり、昔ながらの商店街や個人商店は、おおかた潰れてしまうのが、2040年消滅可能性地方自治体の実情になります。
しかも、いまの地方経済は、住民は、モールで買い物、行政は、立派な箱モノを大手ゼネコンに作らせるなど、大都市に完全に依存しており、地方住民の支払うお金(税金)の大部分が、地方から大都市へ流れてしまう構造ができあがっていますが、目先の暮らしに困らないから、住民も地方自治体も、なかなか危機感を抱かず、実際に、人が激減し始めてから、問題の大きさに気が付き対策を打ったり、対策を検討しても後の祭りであり完全に手遅れです。
2033年には、全国で2150万戸、実に全住宅の30%が空き家になると予測されており、2050年にもなればさらに空き家の数が増え、無人の家が各地で放棄され、朽ち果てるがままになります。
空き家の急増は、全国の地方自治体に共通する問題ですが、問題の根本は、賃貸住宅の空き家の増加であり、いまでも、税金対策として、アパートやマンションがたくさん建てられており、さらに、2022年には、都市部の農地の建物新築を制限する「生産緑地制度」が解除され、首都圏などの3大都市圏で、大量の農地が宅地に転用できるようになるので、さらに多くの賃貸住宅が建つことは確実ですが、需要は増えないので、少なくとも2020年代までは、全国レベルで、賃貸の空き家が相当数増えます。

静岡市の悪夢

全国に20ある政令指定都市の中で、静岡市は、最も急激に人口が減っており、2040年には、現在の約70万人から2割も減って56万人弱になると予測されており、このままでは、政令指定都市の称号さえ「剥奪」になりそうですが、もともと、静岡市は、合併を繰り返して人口を増やしてきた(全国の市で5番目の面積)ので、はっきり言えば、大部分が「田舎」であり、単純に人口だけで、政令指定都市に指定をした国の過ちです(面積が広ければ人口が多いのは当たり前)。
この惨状は、胡坐をかいて、何もしてこなかった地方自治体の末路としては、他の地方自治体の反面教師になりそうですが、他の地方自治体も、具体的な対策や有効な手段を構築しないので、このような「住みやすいごく普通の街」こそが、この先、人口が激減し、最も急速に滅び、消滅してゆきます。

タワーマンションもスラム化

東京都心では、依然として湾岸エリアに高級タワーマンションが建てられ、30~40歳代の子持ち世帯が続々と入居し、近隣の小学校は、クラス数を大幅に増やし、校舎を増築するほどの活況ですが、いまから30年後の2050年には、こうした世帯の親たちも高齢者となり、子供たちは、少なからず実家を離れて暮らしているはずなので、かつては、ピカピカだった建物も老朽化が進み、歯が抜けるように住民がいなくなり、気が付くと隣の部屋に、言葉の通じない外国人が住んでいる、という、まさに、現在の大型団地で起きていることが、湾岸エリアの高級マンションでも確実に起きます。
スラム化問題は、地方都市よりも都市部のほうが深刻でなり、地方都市は、すでに人口減少と高齢化が始まっており、いずれは、高齢者数も減少に転じますが、一方、大都市圏は、いまのところ高齢化は緩やかですが、これまで流入してきた若い世代が2020年代以降、一気に高齢者になり始め、東京では、2010年に268万人だった高齢者数が、2040年には412万人と1.5倍になる半面、現役世代は671万人と200万人近く減ります。
つまり、ある時点から一気に高齢化が進む都市部では、一気に税収が急減し、地方自治体が機能不全に陥り、インフラが維持できなくなった結果、スラム化になる恐れがでてきますが、この段階になって、ようやく、日本人も認識を改めざるを得なくなりますが、この段階で、物事の重大さに、ようやく気が付いても「時すでに遅し」です。

人口の4割が65歳以上

この時期には、日本の総人口は9700万人と1億人を確実に切りますが、様々な問題を後回しにする日本では、人口の減少は止まらず、その後も、人口は確実に減り続け、生活水準も下り坂を転げ落ちるように悪化しますが、最大の問題点は、総人口に占める高齢者の数であり、総人口の4割(約4000万人)は、65歳以上の高齢者となり、彼らを支える生産年齢人口(現役世代)も、ほぼ同数の約4000万人なので、この時代の若者は高齢者を、文字通り1対1の「肩車」で支えることを強いられます。
これでは、いまと同レベルの社会保障制度を維持できると考えることの方が滑稽であり、その主張が非現実的なのは誰の目から見ても明らかです。
つまり、この時期には非常に高い確率で、いまの皆保険制度は瓦解し、いまと同じ年金支給水準を、この時期も維持するには、少なくとも現役世代に、いまの約1.7倍の負担を強いることが必要ですが、そのような制度が維持できるわけありません。

賃貸経営

かつては「高齢者は賃貸を借りにくい」いう風潮がありましたが、今後、その状況は一変し、日本は、これから、少子化・高齢化を伴った本格的な人口減少時代を迎え、2050年には、3人に1人が高齢者になるとされているので、こういった世の中で、高齢者に対して積極的に賃貸住宅を貸さなければ、賃貸住宅経営は成り立たなくなり、むしろ、高齢者に好まれる物件でなければ、賃貸経営者として失格という世の中がやってきます。
2050年には、2006年に制定された「住生活基本法」によって、住宅事情は、様変わりしており、新築戸建住宅やマンションは、もうあまり建てられず、中古住宅と賃貸住宅が、想像もできないほど充実しているはずなので「一生賃貸暮らし」という選択も、珍しくなくなります。

年金制度の破綻

いまのような手厚い医療保険、介護保険などの社会保障制度や年金制度を、2050年でも維持しようとすると、現役世代のすべての国民は、所得税だけで50%を持っていかれる「超・高税率社会」になり、これに、社会保険料などを含めると、なんと、収入の9割を税金として納める必要ができています。
つまり、給料袋を開けても、たった1割しか入っておらず、9割が巻き上げられる、となれば、さすがに、日本でも暴動が起きますが、これは、仮定の話ではなく、現実に、政府内では、2030年をめどに年金受給開始年齢を68歳~70歳に引き上げるプランが検討されており、そこから20年後の2050年に、さらに支給年齢が10年引き上げられれば、年金支給は78歳からとなり、一銭も、貰えないまま死んでゆく人も、かなりの数でてくるので、これは、事実上の年金制度の崩壊です。

分岐点まで残り10年

アメリカの都市は、街が完全に自動車中心にできており、歩いて楽しめる空間や商店街的なものが非常に少なく、しかも、貧富の差の大きさを背景に治安が悪いこともあって、中心部には、荒廃したエリアやごみが散乱しているようなエリアが多く見られます。
日本の場合、
道路整備や流通業を含め、アメリカをモデルに都市や地域をつくってきた面が大きいので、その結果、残念ながら、アメリカ同様に街が完全に自動車中心となり、また中心部が空洞化している場合が多いのが現状であり、残念ながら、日本の地方都市の大部分も、いわゆる、シャッター通りになり空洞化し、活力は喪失していますが、経済に活力を取り戻し、持続可能性がある地方自治を行うには、発想の転換が必要であり、その1つが、クルマを中心とした都市計画の見直し、もう1つは、地方分散型社会の構築が必要になります。
地方分散型社会構築の良い例としてのヨーロッパの都市は、1980年代前後から、中心部において大胆に自動車交通を抑制し、歩行者が「歩いて楽しめる」空間を作り出しており、駅前~中心市街地への道路が、完全に歩行者だけの空間ということは珍しくなく、人々が、歩いて楽しみながら、ゆるやかなコミュニティ的つながりが感じられる街になっており、中心部が、活気ある賑わいを見せているのが特徴です。
いま、いままでと同じ政策を続けるのか?持続可能性の高い街づくりを行うのか?のターニングポイントが迫っており、その期限は、残り10年です。

政策の転換

これまでの日本の政策は、一言で言うと、地方の切り捨て政策であり、戦後の日本の政策は、地域の持続可能性を損なう政策ばかりが行われてきました。
たとえば、高度成長期(1950~70年代頃)は、
農村から都市への人口大移動の時期であり、それを支援する強力な政策(大都市近辺での大量の新興団地や公的住宅整備など)が行われた時期であり、事実、農村部の人口減少が、もっとも大きかったのは、この時期であり、この時期は、農村からは、地方の中小都市にも人口が流入していたので、地方の中小都市は、かなりの賑わいを保っており、地方都市の商店街や中心部が、もっとも賑わっていたのが、実は、この時代です。
しかも、国として、この時期は「工業化一辺倒」の政策がとられ、農業や農村の優先順位は、大幅に下げられ、その結果、他の先進諸国とは異なり、この時期から日本の食料自給率は一貫して低下していっており、この時期に、日本の農村部の「持続可能性」は大きく損なわれ、現在も、回復の見込みは立っておらず、衰退の一途を辿っています。
また、1980~90年代には「アメリカ・モデル」が、政策面で全面的に導入され、流通政策・経済政策と道路・交通政策のいずれもが、強力に自動車・道路中心の都市・地域モデルを志向し、それに呼応して、大型ショッピングモールが登場し、この時期を境に、地方中小都市の中心部の空洞化が進みましたが、重要な点は、いまの日本の地方都市の空洞化は、皮肉にも、この時期の「政策の成功の結果」とも言えます。これが、2000年代ないし2010年代以降になると、これまでとは異なる新たな潮流や政策転換の兆しが見られつつあり、高齢化の進展により、全国に600万人ないし700万人と言われる買物難民問題が、徐々に認知されだし、地域に根ざした商店街などの新たな価値が認知されつつあります。
また、人口減少社会への移行の中で、過度な低密度化の問題が顕在化し、人口増加期とは異なる都市・地域モデルの必要性が、次第に認識されるようになり、若い世代にも、ローカル志向・地元志向といった新たな志向が広がりつつあります。
また、国の政策の基調にも変化が見られ、コミュニティなどの視点を重視した、高齢化・人口減少社会における新たな都市・地域像への模索が始まろうとしていますが、他方で、いわゆるアベノミクスなどの既成概念の発想政策思考が、なお強いので、政策の転換期ないし分岐点の時代とも言えます。

30年後の日本について

現在のような政策や対応(都市集中型)を続けていれば、日本の地方自治体は、高い確率で「破局」に至ります。
いまの都市集中型では、地方は人が住まなくなり、その結果、荒廃した国土が広がり、人が住む都市部では、子どもが生まれず、少子化や生産年齢人口の減少問題の根本的な解決はできず、いずれ、過酷な社会(破綻)が待ち受けています。
これを防ぐには「地方分散型しかない」となりますが、いまの国や地方自治体が進めている単純な地方分散政策(I・U・Jターン)は、まったく意味がなく、かえって、地方交付税の負担が、年々重くなる、地方の医療システムの崩壊、ゾンビ地方自治体の延命など状況を悪化させるだけです。
つまり、真の地方分散型とは、その地方の持続可能性を見極める必要があり、いまのように、闇雲に、地方への人の流れを作り出すのではなく、地域資源(人・モノ・お金など)が地域内で循環できるシステムの構築、地域内のエネルギー自給率、雇用、地方税収などを地域内で循環させるシステムを構築した地方自治体、もっと簡単に言えば、
労働生産性から資源生産性への転換を促す環境課税や地域経済を促す再生可能エネルギーの活性化、まちづくりのための地域公共交通機関の充実、地域コミュニティを支える文化や倫理の伝承、住民・地域社会の資産形成を促す社会保障などの政策を実行・推進している地方自治体に限定して、そのような地方自治体に集中的に人の流れを作りだすことが必要です。
これにより、少なくとも、いまのような全国レベルで衰退するという最悪なシミュレーションは防げ、高度成長期同様に、活力のある地方自治体が、全国に分散することにより、国としての持続可能性が生まれます。
いまの地方自治体の数が多すぎるので、これにより、適正な数の地方自治体数になると思われます。
過去の日本では、人口が減少に転じた時代(江戸時代の終わりから明治時代)には、日本人は、生活のスタイルや価値観を大きく変えることで乗り切ってきたので、これから長い時間をかけて、変わる覚悟を決めてゆく必要があり「ことここに至ると、もう次の世代に希望を託すしかない」となりがちですが、いまの社会に生きる私たちが、生活スタイルや価値観を変革する義務(責任)を放棄するということは、無責任以外の何物でもなく、私たちが、放り出せば、私たちは楽かもしれませんが、それにより、いまよりもさらに悪化した未来の日本で生きる私たちの子どもや孫たちは、私たちが、想像もできないレベルの辛さを確実に体験することになり、原因は、すべて、目の前の問題から目を背けて逃げた私たち親の世代の責任です。
現実は残酷であり、国立社会保障・人口問題研究所の予測では、2040年時点の14歳以下の子供たちの数は、2010年と比べ36%も減っており、出生率の低下に歯止めがかからなければ、2050年には、さらに減りますが、母親となる女性の数も、向こう数十年間は確実に減り続けるため、この問題を改善することはほぼ不可能であり、いま、教師として働いている人は、定年まで、仕事があるかどうかも分からず、これは、大学や予備校、塾なども同様であり、その多くは、お払い箱です。
これは、これまで何十年にも亘り「将来、少子化・高齢化と人口激減で大変なことになる」と口では言い続けてきても、具体的な対策を、何1つ行ってこなかった私たちの親の世代や私たち世代の責任(口先だけの政治家を国政に送り続けてきた責任)であり、ついには、いままでのような「問題の先送り」が通用しないポイントまで来てしまい、いまとなっては、過酷な未来を避ける手立ては、もはや無くなったも同然ですが、日本人は、後戻りのきかない「人口激減時代」に足を踏み入れたことを、そろそろ、真剣に受け止めなければ、本当に取り返しがつかなくなり、その苦しみは、私たちではなく、私たちの子どもや孫が「死ぬまで受け続ける」ことになります。